2014年08月

 2回目の本所落語倶楽部が終わった。今年から始めた会なのだが、会場が地元のお江戸両国亭なのでアタシは歩いても5分ほどの所だから、どうってことはないのだが、遠方の出演者には申し訳ない気がする。その分、交通費でも余計に出してやりたいのだが、なかなかお客さんも思い通りには入ってくれない。

 1回目よりは入りは良かったが、それでも予想の6割程度といったところか。その両国亭は会場の真ん中に大きな柱があり、この柱がどうにも邪魔なのだ。尤も、もともとは寄席にする考えなど全くなかったのだろうし、なんのきっかけで寄席になったかも分からない。

 以前はちょっとした物品販売の会場に貸し出したり、といった何もない、ただの大きめのスペースだった。ただ、永谷の社長さんが相撲と演芸が趣味で、たまたま寄席になったようだ。そして、ここは来年の1月から4月まで耐震補強工事をすることになっているだが、これ以上柱が太くなったら、寄席としてはやっていけなくなるのじゃないだろうか。

 先日、たまたま社長さんに逢ったので、その辺のところを訊いてみたのだが、どうなるか分からないと言う。もし、今以上に柱が太くなったら、小屋代を半額にして下さいと言ったら、ただ、笑っているのみだった。今年からここで独演会も始めた身としては、大いに気になるところだ。

 今の世の中、お客を呼ぶのが本当にむずかしい。尤も、寄席の情報誌を見ると1日で20から40もの落語会が毎日のように行なわれているのだから、客の取り合い状態になるのは当たり前だ。二つ目連中も黒門亭の会場になっている落語協会の2階を借りて勉強会をやっているが、やはり、苦戦しているようだ。東京に噺家だけで四百数十名いることが、すでに間違いなのかも知れない。

 

 

 校友会城東支部の研修旅行に行って来た。総勢25人。今回は「学祖・井上円了の故郷を巡る旅」である。上越新幹線で長岡に到着。歩いて長岡高校の井上円了資料館を訪れる。夏休み中にもかかわらず、館長さんと職員の方が出迎えて下さった。

 ここからは迎えに来た旅館のバスに乗って、司馬遼太郎の小説「峠」に描かれた幕末長岡藩の風雲児、河井継之助記念館に向かう。この人は今回初めて知った。その後、ほど近い山本五十六公園に行き、復元された五十六の生家を拝見。ちゃんと男子用便所があるところが、いかにも古い家であることを物語っている。

 そこから40分ほどバスに揺られ、山の方へと昇ると、先週行った上越と同じようなのどかな田舎の風景が出現する。ここは、一晩厄介になる、校友の経営する蓬平温泉「蓬莱館・福引屋」である。ひとっ風呂浴びて宴会となる。ここで「井上円了物語」の一席の話もあったのだが、今回はエンリョウした。

 翌日は旅館からすぐ近くの民宿へ。ここで東洋大の駅伝の選手たちが合宿をしているのだ。この民宿は旧山越村の村長で現在、代議士をしているN氏の経営となる所である。ここでは10名の選手が寝泊まりしているので、選手一人一人に握手をして激励をする。

 次に向かったのは山越志復興交流館「おらたる」。「おらたる」とは俺たちのところという意味らしい。10年前の地震の様子を改めて思い起こす。昼食はへぎそばである。ふのりをつなぎに使った越後の名物そばである。たらふくご馳走になる。

 最後の訪問地は円了先生生誕の慈光寺。現住職様から円了先生のお話を伺う。ここのご住職はお話好きと見えて予定をはるかにをオーバーして1時間たっぷり聞かせていただいた。長岡駅までバスで20分。無事全員乗り込んだ。

 アタシは上野駅で何人かと下り、そこから新宿に出て末廣亭へ。この日はインターネット落語会の収録があり、「居酒屋」をやらせてもらった。いやあ、今回は、旅も高座も大いに酔わせていただいた。

 新宿末廣亭夜席の初日。トリは弟弟子の正雀である。前座、二つ目のころは、この芝居(10日間の興行)は師匠の怪談話であった。中入りで黒幕を高座の後方に吊ったり、アタシは前座2人で高座の後方から幽霊になって、お客さんを脅かしたりしていた。しかし、怪談話、芝居噺に失敗は付き物であった。

 それに比べれば、この10日間は実に気楽なもんである。アタシの出番はヒザ前、つまり、トリの2本前。いつもなら、のんびり晩酌を始めている時間である。この10日間は大幅に晩御飯の時間が遅れることになる。出がけに軽く何か乗せないと(食べないと)いけない。

 初日の高座。末廣亭は平日は昼夜流し込み(入れ替えなし)なので、出番が遅くなればなるほど、それまでに出ている出し物が多く、ネタを決めるのに苦労する。結局、「しわいや」をやったのだが、ちょっと持ち時間を余してしまい、ヒザ替り(トリの前の色物)の仙三郎さんには悪いことをしてしまった。

 正雀の初日は「牡丹燈記」。キリに彦丸とかっぽれを踊る。無事ハネて帰り支度をしていると、談笑が楽屋に入って来る。世之介と2人で「立川流の入って来るとこじゃないよ」などといじる。この後、何か高座を使って撮影があるらしい。我々は打ち上げのため、10人ほどで寄席の隣の店へ。

 この店は前座のころはずいぶんお世話になったトコである。ここの「ジュージュー」と言われているキャベツの上に豚肉の炒めたヤツが乗っかったのが実にうまい。才賀さんなんざ前座のころ、昼夜(昼席、夜席の通し勤務)の時など、昼と夜、2回ともジュージューを乗せていた。その位、うまい。でも、今は値段も950円といい値になっていた。

 この芝居のアタシの前の出番は世之介で、ここでも同席したのだが、いや、よくしゃべる、しゃべる。馬生さんがよく言っているが「いいから、お前は少し黙ってろよ」という気持ちがよく分かる。そんなどうでもいい話をフンフンと聞きながら、アタシはハイボールを飲みながら、久々にジュージューをご馳走になった。

 毎年恒例のようになっている越後上越の別荘に今年も1週間行って来た。今年はウチの家族3人とカミさんの親父さんの4人での旅である。カミさんの運転で家を6時半に出発。途中、トイレ休憩などを挟んでののんびり旅である。六日町のインターから十日町のスーパーへ。 2日分の食料を買い込む。

 昼食はいつも通り、このスーパーの近くにあるMというラーメン屋。こってり味のラーメンだが、これが実にうまい。大盛りも同じ値段なのだが、以前、注文してその量の多さに閉口した。そんなわけで今年は醤油味の小にして、別に餃子を注文することにした。正解だった。

 そこから小一時間で別荘到着。しかしながら、3年前の東日本大震災の翌日の新潟地震でこの地域も大打撃を受け、家の中のものはことごとく倒れ、風呂場の壁もだいぶ崩れてしまった。しかし、親父さんの奮闘努力のお蔭で何とか元の形を取り戻すことが出来た。

 今年93歳になるこの親父さん、何とも元気。アタシにはとてもまねの出来ないスーパー爺さんである。去年は天井が抜けてしまい、大きな穴が開いたが、それもふさいでくれた。しかし、その後、雪かきを頼んだ時に地元の業者が重機で雪をかいたために屋根に穴を開けてしまい、水漏れのために畳が台無しになってしまった。

 そんなわけで、23年間にわたって、ウチの子供やその従兄弟たち10人以上が世話になって来たこの別荘も、今年限りで使うことをあきらめざるを得なくなってしまった。誠に残念なことであるが、仕方ない。その上、この近所の村に住む人たちも年々少なくなってしまった。いずれ廃村になるかも知れない。

 この地は夏はとにかく涼しいのでエアコンを使う必要がなく、近くの松之山温泉や芝峠温泉に行き、汗をかいて、それを流すという贅沢な毎日である。その代わり冬の雪は半端ではなく、地獄の生活となるのである。人がいなくなるのも無理はないのかも知れない。

 以前、この地で詠んだ句の改作。これでどうだろうか。
    
         闇となり 虫に奪はる 村ひとつ    華楽

 

 毎年、8月11日は圓朝忌である。谷中の全生庵という寺に落語協会員が多数集まる。この全生庵は一般の方にも座禅のために本堂を開放しており、かつては中曽根康弘元総理がよく訪れていて、現在は安倍総理もたまにお出でになるようである。

 なるべく協会の浴衣で来るようにとのお達しなので、今年誂えた浴衣で出かけた。昨日まで台風で大変な陽気だったが、無事台風が去り、いいお天気に恵まれた。まだ、余波で風が強いようだったが、風がある方が涼しくて過ごしやすい。

 10時からの読経なので、それに合わせて協会員がぞろぞろと集まって来る。周りを見渡してみると、我々が年長のクラスになってしまったようである。師匠のお供で付いて来たのが、つい、こないだのようだ。毎年、律儀にお出でになる落語芸術協会会長の歌丸師匠が最年長である。

 今年の司会進行係は新理事となった馬生師が務めた。相変わらず、くだらないことを平気でのたまう。困ったもんだ。読経が終わると、奉納落語である。今年は圓窓師匠が15分程の高座。その後は正面階段下で扇子のお焚き揚げ法要である。

 法要がすべて終わると、軽く食事会がある。そば、稲荷寿司、木村屋のあんパンなどが振る舞われる。我々が前座のころはスイカを風呂場の水に浸けておいたもんだが、今では冷蔵庫で冷やした冷たいスイカが出て来る。アタシは軽くビールでのどを潤す。

 1時間ほど仲間と馬鹿っ話をして気が付いてみると、吉窓と最後の2人になってしまったので、あわてて寺を後にした。食事会のエンチョウはないのである。

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